おさしづ配信

百万の物より一厘の心

おさしづ配信

「可愛いこそ意見もする。これ結構やなと思えば、結構。これだけ艱難通りて居るのにと、不足らしい心ではならん。… (しばらくして)…さあ頼もしい/\心供えば受け取る/\。泣く/\するようでは神が受け取れん。百万の物持って来るよりも、一厘の心受け取る。」(明治35・7・21)

神様の意見は身上事情を通じてであり、そこから神様の思召を悟れるようになれたら結構ですね。
意見をしてもらえる間が花で、してもらえなくなったらおしまいだ、と世間一般にも言われます。しかし、神様のご意見は、見放した人にはなくなるなんてものではありません。第一、見放すなんてあるはずがありません。親なのですから。でも、聞き分けなければ、是非がないという時があります。やはり、素直は人も好くし神も好くのだから、神様に好かれるよう、素直になろう、素直になろうと努力すること、大事です。
「これだけ艱難通りて居るのにと、不足らしい心ではならん」とおっしゃっています。教祖五十年のご苦労を思えば、今の自分の苦労など、九牛の一毛に過ぎないと思えてくるでしょうね。さらに、九億九万九千九百九十九年という、実に気の遠くなるような長い長い年月をかけて人間を創造された親神様のご苦労もまた、気の遠くなるようなものに違いないので、人間一代の苦労などてんで比べものになりません。
子供を育てる時は、臭いとも汚いとも思わずおしめを替えたり、夜中でも眠いと思わずお乳をやります。難儀大層の心が忍び入ったら親の恩をまだよく分かっていない、親の心が分かっていないのだ、ということになります。いんねんの自覚も足りないのですね。
また、いくら一生懸命にやっても、「泣く/\するようでは神が受け取れへん」とおっしゃるので、明るく陽気に勇んでかかることが必要です。楽しんでさせていただくことです。
量でもなく、金額でもなく、能率でもなく、神様が受け取ってくださるのは、たった一つの心だけです。ご神饌でも、心込めてお供えしても神様は食べてくださいません。心だけを受け取ってくださいます。
百万の物より一厘の心を受け取ってくださいます。実にありがたいですね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)