これからは何も彼もさしづ通り、どんな事にもさしづは一寸も間違わん。心に跨りあっては千里真直ぐな道でも、跨りあっては明らかとは言わん。(明治23・11・23)
いくら神様が一分一厘狂いない明らかな道を示されても、心に跨りがあって、疑い、案じ、迷いの心があると、結局たすからない結果になります。たすかるたすからんは受け方一つ、守り方一つで決まると言っていいでしょうね。
仮に、説く者が間違っても、それを上手に素直に受けて守った者はやっぱりたすかるのであって、おふでさきの、
これからハうそをゆうたらそのものが
うそになるのもこれがしよちか(十二号 112)
という、そのとおりになるのですね。
だから安心して受け方上手に徹していけるのですが、上に立つ者の責任は大きくなります。たすかるところほど、上に立つ者が一つ間違うと転げ落ちることになり、高い所ほど怪我も大きくなります。
愛町の初代会長様がある時、神経痛を神経衰弱と聞き違えてお諭しを下さったことがあります。お通しした人が、「神経衰弱ではなく神経痛ですが」と申し上げたのですが、「それでいいよ」とおっしゃいました。そして、本当は神経衰弱のほうがひどかったのですが、病名をはばかって神経痛としてお伺いしたので、かえってそれでよかったことが分かったのでした。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)