おさしづ配信

世上の道と神の道

おさしづ配信

「事情の道とは世上の道、神の道は胸の道。世上の道はどんな事して居ても、目にさえ見えねば通りて行ける。なれど胸の道は、皆身に掛かる。道に二つある、世上の道、胸の道。世上の道には、どんな穴が有るやら知れん。又剣が有るやら知れん。神の道は、胸三寸の道であるから、通ろうと思うても通れん。これさえ十分説き聞かせば、どんな事も皆治まる。」(明治24・1・27)

何をやっても人に見られなければよい、といっても、天知る、地知る、我知る、人知る、なのだし、だれにも分からないと思ってもいつしか必ず知られる日が来るものです。
身上(病気の事)に出ても事情(困った問題)に出ても、お道の人には、そう成ってきた心の種まきがよく分かるので、ごまかしはきかないのです。世上の道は通りやすいようでいて、どんな穴や剣に出合うか分からないし、出会ってからでは間に合わないので、神の道を通る方が安全です。
神の道は、成らん先に教えていただけるし、悟らせていただけるし、足りないところは足してもいただけるのです。その代わり、ほこりの心にまみれると、そのどれも失われてしまい、通るに通れなくなります。
H子さんは、「布教所に住み込んで神様の手足となって通ります」と心を定めてご守護を頂いたのですが、ご主人が亡くなり、おじいさんが亡くなり、家から出るに出られなくなって、病気も再発したのですねした。定めてすぐに踏み切るべきだったのでしょうが、そのうちに、と思っているうちに、次々とふし(節)が迫ったのでした。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)