おさしづ配信

自由自在

おさしづ配信

神一条の道、身の内かしもの道具、心通りに身はどうでも出ける。身の処道具誠と心定めば、誠は弱いもである。なれども、長い堅いものや。誠は天の理や。それ神が直ぐ受け取る。誠と真を定めて通れば、世界から見る。成程の人や、成程の内やと言う。世上に理を出ける。自由自在や。それ身の処も自由自在や。」(明治23・7・8)

だれしも自由自在に生きられたらなあと思うでしょうね。この自由自在は結局、誠真実から生じるということ、おかきさげでもここでも、はっきりおっしゃっています。
誠という字は、言偏に成る、と書きます。誠真実の人の言うことは、ちゃんとそのとおりに成ってくる、ということなのですね。自由自在ということでしょうね。
しかし、この誠真実の心は、自分を捨てないと出てこないでしょうね。わが身かわいいだけの心なら、誠真実は全然見つからないでしょうね。世のため人のため、己を捨て切って尽くした人こそ、誠真実の人と言えます。
その誠真実がいついかなる時も、どこでも、だれに対しても変わらぬ時、世の人々も「成程の人や」と言いますね。
愛町の初代会長様は昭和二十六年に、東海地方六県で最も世のため人のため貢献した人として、東海毎日賞を頂きましたが、その席上において、日本に一人、いや世界に一人の人とまで、賛辞を頂いたのでした。
けれども、長い間人に笑われそしられて、「あんなばかはいない。ばかでなけれりゃ、あのまねできん」と疎んじられた時代を、その二十余年前に通り抜いていらっしゃるのです。そしてとうとう、言えば言ったとおりに成らせるだけでなく、思えば思ったとおりに成ってくる、自由自在を頂けるまでにたどりつかれたのでした。
身を捨ててこそ立つ瀬がある、と信じ切って、ご自分を捨て切って捨て切ってお通りくださった結果なのですね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)