おさしづ配信

澄み切りた理は集める

おさしづ配信

「日々尽して居るは受け取る。その中一つ理ありて、育てば育つ、育てねば育たん。…皆澄み切りた理は集める。濁りた理は寄れん。ひながたあるであるで。嘘やない言うたる道出てある。どういう事成るも神の働き、神の働き諭す。…旬待てども外れる。旬外れるから取り返やしならんようになる。」(明治28・11・6)

日々、欠かさず尽くすことは大事ですね。「日々という常という」と、おかきさげにも繰り返し出てきます。
子供は、生みっ放しで、何も与えなければ死んでしまいます。にをいをかけた人には、こちらに足を向けてくれるまで運び、その人がおたすけをするようになるまで心を離さぬことが必要です。
相手が離れていっても、こちらから心を離さぬことが大事です。わが子であったら、たとえ勘当しても心は離れないでしょう。
花の蜜にハチが集まるように、良い匂いに誘われるように人が寄ってくるには、澄み切った心が自分自身になければなりません。澄み切った心とは濁りのない心ですから、わが身かわいい人間思案の心を捨てていくことです。
澄み切るとは、角が切れることである、とも考えられます。角が取れて心が丸くなることであり、人当たりの良い人になることでもありましょう。そのためにも、さまざまな人に当たり、笑われそしられて、頭の低い、心のやわらかな人になっていく必要があるのですね。
鉄は熱いうちに打て、と言われます。冷えてしまってから打っても、どうにもなりません。春にまく種を秋にまいても、実りません。にをいがけ・おたすけでも同じです。わが身わが家のことに明け暮れていたら、たすけの旬、たすかりの旬を外してしまいます。神一条の務めにかかったら、わが身わが家のことを忘れることです。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)