おさしづ配信

これほど尽くすのに

おさしづ配信

これ程尽すのに、身の処どうゆものと思う。尽すのに身の処一つの不足。案じは要らん。案じては案じを回る。一つはたんのう。(明治20・12・20)

おさしづの中にかなり繰り返されているものの一つに、この「これほど尽すのに」があります。たすかりたいの心が強く、自分中心に考えれば、ついそう思いたくなるのは無理もないのですが、これではつい不足か出て、神様にお受け取りいただけなくなり、ついにご守護を頂きかねるという結果になる心配があります。
ですから、心の向きをくるりと変える必要があります。人間は死んで終わりでなく、何度も生まれかわって、いろいろないんねんを積み重ねております。だから、一生かけて懸命にほこりを払っても、富士山を針でつついたくらいしか払えないのだ、とまで言われます。ですから、「これほど尽すのに」などとは言えるはずはないのです。おこがましい話です。でも、道が浅いとついそんな心が出やすいのですね。
昨日テレビを見ていたら、身の上相談というのがあり、時効が成り立つか成り立たないかという問題を扱っていました。借りる時は三拝九拝して借りるのに、返す時は貸したほうが頭を下げることが多いのですが、考えてみればおかしな話です。そのように、人にしてあげたことは覚えているのに、してもらったことはきれいに忘れる人が多いですね。
それほど人間は恩を忘れやすいので、だから困るのでしょうね。死ぬ運命の人が事情で苦しんでも、死ぬことに比べたらありがたいのですが、そのありがたさをつい忘れてしまいます。大難を無難にたすかったらありがたいものですが、小難が無難に済んだ場合は、たすかったという意識がないから恩に感じることが難しい。こうした知らずにたすかっている恩にも気づくようになり、その恩返しを心がけるようになってこそ、一人前の人と言えるのでしょうね。
そこまで分かるには、いんねんの自覚ができないとなかなか難しいでしょう。いんねんの自覚ができてこそ、たんのうの心も治まってきます。その自覚が心底からできるには、おたすけを毎日必ずさせていただくことですね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)