おさしづ配信

をやの代わりをするのや

おさしづ配信

「これまでをやが皆通り来る道、聞いても居る。見ても居る。皆談じ合うて通りてくれ。大きい心を持って通れば大きい成る。小さい心を持って通れば小そうなる。親が怒って子供はどうして育つ。皆、をやの代わりをするのや。満足さして連れて通るが親の役や。皆、満足さして、元のぢばや親里やと言うて、満足して帰るのやで。どんな事も談示して満足さすよう。」(明治21・7・7)

満足させることと仕込むこと、叱ることと褒めること、この二つをほどよく調和させることが、良き理の親の資格かもしれません。叱るのも仕込むのも、満足させるためのものであること、やがて分かってもらえるようであればいいでしょうね。
愛町の初代会長様のお仕込みはなかなか厳しかったのですが、その後ほのぼのと、”お仕込みを頂戴してよかった”という喜びと満足が湧いてくるようなものだったようです。実の親がわが子の先々のため、涙ながらに仕込むような、そんなものがあったようです。
麹町大教会の久保清次郎会長様は、ご本部から詰所に帰ってくると、時折かんしゃく玉を破裂させたそうです。しかしそれは、一時の腹立ちの無差別な暴発でなく、相手を見た上の破裂だったそうです。ですから、鳩が豆鉄砲をくらったように、何のために怒られなければならないのか、さっぱり納得がいかなくても、かんしゃく玉の破裂台にしていただいたことは、取りも直さず、心の成人ができてきたいう証拠になったので、あとから満足の心が湧いたものだそうです。
良く受け取ると良くなるし、悪く受け取ると悪くなるのは、この世の真理であり真実ですね。心の成人ができてきたということは、受け取り上手になってきたことでもあるわけですね。良いことを良く受け取るのはだれでもできるので、悪いことでも良く受け取れるようになってこそ、心が成人してきたことになるわけです。
愛町の二代会長様の奥様はある朝、会長室の常夜灯がついたままなのを見つけました。「だれだね、こんなもったいないことを放っておくのは」と、責任者を責めようとされずに、「神様が、私にも徳を積みなさいと残しておいてくださった。ありがたい」と受け取って、喜んで消させていただいたのでした。
徳のない者ほど愚痴不足が多く、悪く受け取り、良いことさえ悪くしてしまいます。徳のある人は何でも、どんないけないことも良く受け取って喜び、さらに徳を増やします。ですから、だんだん差が開いていくばかりです。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)