おさしづ配信

水の中、火の中も

おさしづ配信

剣の中もあれば、水の中、火の中もある。その中常の心一つで遁れる。(明治25・10・27)

おふでさきには、
やまさかやいばらぐろふもがけみちも
つるぎのなかもとふりぬけたら (一号 47)
まだみへるひのなかもありふちなかも
それをこしたらほそいみちあり (一号 48)
とありますね。その中の三つがここに出てきました。咳の場合は、わが身わが家のことは急いてはいかん、と注意されるていることが多いのですが、ここでもまた、それに近いお諭しと思っていいのかもしれません。
常の心とはすなわち平常心ということで、急いたり、あわてたりしない普段の心、ということでしょうが、神様にもたれ切っている安定した心、と言ってもよいでしょうね。
ともすれば、人間心の狭い小さい考えから、神様のことを後回しにして、わがことを先にしたくなるのですが、これはいくらあせっても成ってこないほうが多いのです。神一条とわがことと立て合った時は、絶対神一条のほうを優先させないと駄目なんだということ、はっきりと肝に銘じておく必要がありますね。
社会でも、急いては事を仕損じる、とか、急がば回れ、と言われています。神一条のことは、一日の遅れは千日の遅れと言われますから、急ぐ必要があるのですが、わが身わが家のことは決してあせってはならないのですね。
神様は、常の心で通るなら、剣の中も、水の中も、火の中も通れると仰せになっています。
水の中でも、うかつに頭をあげようとせず、天を仰いで寝る形になれば、少しは沈んでもちゃんと身体は浮くものです。下手にじたばたするから溺れるわけで、これは信仰の上にも同じことです。
たすかるところも、信じ切れず、もたれ切れず、まかせ切れず、先案じしたりすると、たすかる寸前に、自ら墓穴を掘ったりします。
愛町の初代会長様は常に、「身を捨ててこそ立つ瀬がある」とおっしゃいました。捨て切ったら、神様が拾ってくださいます。もともと心一つしか人間のものはなく、生命も身体も神様からお借りしているのですから、何の心配もいらないのですね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)