おさしづ配信

関は神が取る

おさしづ配信

「さあ/\分からん処には、何ぼ誠説いても誠とせん。何ぼ貫ぬこうと思うても、関があっては登れん。登られんから帰る。帰るのも道ぢゃ。関があるから、邪魔になる。関は神が取るのやで。関さえ取れば、登れるであろう。又関貫こうと思うゃ、余程の長く掛かる。」(明治20・6・28)

おたすけをした人にはよく分かることです。どんなに難しい相手でも、誠真実の限りを尽くしていれば、神様がその関(邪魔)を取ってくださるというのだから、問題は相手よりも自分にあると思って、わが事と思っておたすけにかかることです。
病人が食べられない場合は自分も食べないで、相手が眠れない時はこちらも眠らないで、おたすけに頑張ることもありますが、喜んでやるのでないと、無理をしてもいけません。また、食べないだけでなく、その分を理納め(お供え)してを神様にお受け取りいただくことも大事です。
酒やタバコなど断つ場合も同じです。神様に届けば関を取ってくださいます。ところが、届くまで長くかかることがあり、これでもか、これでもかと試される場合もあります。その中、変わらぬ心を貫いてこそ誠の心と言えるのだし、誠なら必ず神様が受け取らずにはおかないものなのですね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)