おさしづ配信

往還道は危ない

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「大道大道と言う。どういう怪我無いとは言えん。往還道は踏み被り無い筈なれど、心に油断があるから踏み被ぶる。何ぼ細い道でも、心一つの理さえ治まれば踏み被りは無い。」(明治27・1・25)

広くて大きい、まっすぐな道ほど交通事故が多いそうです。油断大的ですね。
「滅びに至る道は広く大きい」というキリストの言葉も思い出されます。やっぱりいくら結構になっても、細道を一手一つに、どこまでも通り抜くのが安全でしょうね。お道の上の難儀が結構、苦労が財産なのですね。
教祖のひながたをたどるのがお道の人の通り方です。教祖五十年のひながたは、ただの一日も結構な日があったろうか、というご苦労の連続でした。そのひながたをたどるのは、お道のどんな立場の人も同じですね。初代だけが教祖のひながたを通れば、二代三代は、まして四代五代は通らんでもよい、というようなことは絶対ないはずですね。
初代が苦労なくして築き上げた、というところは一つもないでしょうね。その初代の苦労を断じて忘れぬ、そして初代の理を立て切って、往還道であっても細道を通る心で代々貫くなら、教勢が下り坂にならずに、隆々と代を重ねるごとに栄えていけるでしょうね。
けれども、代々の苦労の結果の上にあぐらをかき、教祖のひながたもたどらず、おたすけもしなくなったら、往還であってもどんな怪我をするやらしれません。踏み外しもするでしょうね。交通事故にも遭うでしょうね。
お道の先人たちが、日本全国のどこへでも、どんどん布教の第一線を伸ばしていったように、今は海外でもどんどんおたすけに出なければならない旬ですから、出来上がったものの上にあぐらをかき、それを守るだけで汲々としていたら、さびれる一方であること、火を見るより明らかですね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)