今ではさあ/\、一日の日がある/\と知らしたる処、年明けたら、えらい関がある。越すに越せんというえらい関は、越すに越せんのその関は、皆んなの心で皆一つに皆寄せて越す。(明治21・12・25)
一つの文の中に「皆」が三度も出てきます。一手一つの心というのには、親神様は大変重きを置かれています。違った人間が一つ心になるのは難しいのですが、神様の子供という立場では同じなので、神様を定規にすれば一つになることができるのですね。
夫婦でさえ、親子でさえ、なかなか一つ心になれないでいます。何年たっても、何十年たってもできないでいる人たちがいます。そのほうが大半でしょうね。ましてや、大勢の集団が皆心を一つにするのはなかなか大変なことです。共通の目的の下に、中心になる人の下に、共通の利害が伴って、一手一つになることができるのでしょうね。
どんな難しいことでも、一人ひとりの心が寄り合えば解決できるとおっしゃっています。形で一つになれても腹の底こまで一つになるのは難しいのですが、まず形から、そしてだんだん心の底まで一つになれるように努力することによって、心の成人ができるのですね。
心の成人ができたら幸せに暮らせるのだし、幸せとは心と心が合うことだと言ってもよいので、まず心を合わせる努力を絶えずさせていただくことが必要となります。
合わせるためには、自分の考え、好き嫌い、損得、都合を捨てねばならない時が出てきます。捨てることによって、いんねんも切り変えられていくのですね。見捨ててこそ立つ瀬があるのですね。
以上のものがいんねんを作ってきたのですから、これらを捨てることによって、悪いいんねんが減っていくのは明らかです。神一条のご用の上に、特におたすけの上には、これらを捨てないと相手にたすかっていただけないことが多いのです。特に医者薬で難しい病人ほどそうなので、どうでもこうでも思い切って捨ててからねばならないのですね。
自分の思いを通して悪いんねんを積みます。だから、今後は神様の思召を立て、人の思いを通してあげて、前生過去の償いをするわけです。その償いがだんだんとできていくと、やがてや自分の思いどおりに通える日がやってくるわけです。映り返るが天の理、なのです。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)