おさしづ配信

陽気遊び

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人間は何のために生きているのか? その答えはいろいろでしょうが、人間をこしらえた親神様のおっしゃるには、人間が陽気ぐらしをする姿を見て、神も共に楽しみたいと、人間を創造されたとのこと。
人間はどんな人でも、自分の親が本当の親かさえ、疑ったらきりはありません。幼児の時もらわれたら分からんのですから。まして、目に見えぬ親神様のことを、疑ったら確かめようがないのですが、世界中にそう言明された神はどこにもないのです。
陽気ぐらしの反対は陰気ぐらしですが、陰気ぐらししたい人はいないでしょうね。陽気とは、どんちゃん騒ぎをすることではないのです。心の中が明るく勇んでいる状態で、どうしたらそうなれるのかといえば、「皆んな勇ましてこそ、真の陽気という」(明治30・12・11)と教えていただきます。

「陽気遊びと言えば、今日もあちらへ遊び行く、何を見に行く。陽気遊びとは、目に見えたる事とはころっと格段が違うで。」(明治23・6・20)

「あちら」とは、海外の国々の意味のようです。教祖はもう百五、六十年も前から、既に今日を予見なさっていたというか、お心は既に実行なさっていたかのような感じですね。
遊びの心で人生を送れるようになるのが、陽気ぐらしの一つの目標でしょうね。労働はつらいものでしたが、はたはたを楽にさせてあげるのが”はたらく”であれば、肉体的にはややつらいものでも、心がみんな”はたらく”に徹していたら、楽しいもの、遊び心でやれるものへと昇華できるでしょうね。
その点、フランス「悪の華」の主人、アルチュール・ランボーが、”La vie c’est divertissement.”という詩の一節を残しているのは、注目に値しますね。人生は遊びである、気晴らしである、あるいは発散である、といった意味でしょうか。
ランボー(一八五四~九一)は教祖より五十六年後に生まれ、約三十三年間は同じ時代を生きていた人であることも興味を引きますね。陽気ぐらしとは、内容はもちろん違うのですが、似た部分、近い部分があるだけでも。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)