おさしづ配信

一粒万倍

おさしづ配信

一時尋ねる処余儀無く事情であろう。余儀無く仕切りての処どうでもこうでも精神を定め。一日の日定め。楽しめば楽しむ理ある。一つ楽しんですれば一粒万倍にも返す理である。…尋ねる処は余儀無く又一つ理多くの中、何でも精神無けりゃならん。一つよう聞き分け。蔭からでも尽くせば、一粒万倍という。(明治36・9・18)

仕方なく定めねばならないことだってありますが、定める限りは、喜んで、楽しんで定めるように、心の向きを変える必要があります。一粒万倍の理が頂けるか頂けないか、ちょっとの心の差で決まるのですから。
また、「蔭からでも尽くせば、一粒万倍」ともおっしゃっています。良いことは自慢し、悪いことは隠したがるのが普通一般の心ですが、お道の人はその反対に、良いことはなるべく陰にし、悪いことはさんげして人に知られようとします。
そうなってないなら、まだお道の人とは言えないかもしれませんね。自慢するのは、せっかく種をまいても土をかぶせずに取ってしまうのと同じで、種が芽を出せなくなってしまいます。
良いことは種にして、土をかぶせて隠しておけば、やがて芽を出し、実る日が来るものです。世の中でも、自慢高慢ばかのうち、と言いますが、本当にばかですね。せっかくの良い種になるものを掘り返すのと同じですから。
担任が変更になっても、親から子へと代わっても、人が代っても理は一つとして、理を立て切って通ってこそ、理が立つのですね。愛町の初代会長様は、麹町大教会の久保治三郎会長様に仕込まれた恩を、四代にわたってつとめ切ってお返ししたのでした。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)