おさしづ配信

神一条の理は一夜の間にも入り込む

おさしづ配信

「さあさあ神一条の理は一夜の間にも入り込むなら、どうしようとままや。朝あちら向いて居るを、こちら向けるは何でもない。」(明治21・7・23)

教祖が姿を隠されて後、天理教会設立への動きが活発になりました。認可を得るために東京へも足を運んでいますが、このおさしづはそのころのものです。
何事であろうと、神様にお働きいただけるかどうかが問題です。政治であろうが、会社のことであろうが、同じことです。
Tさんのご主人に転勤問題が起こりました。いままで一度もよその土地へ出たことがなく、何十年も自宅から通勤していたのに、五十歳になってから、急に遠くへ転勤することになったのです。そこで、「もう内定したことだから、どうにもならないことかもしれませんが、どうしたらいいのでしょうか」と相談に来られました。
ご主人は、「この年齢になってよそへ行くのは嫌だし、といって会社をやめるわけにもいかない」と困りきった様子でした。そこで私は、「内定であっても決定ではないのだから、神様にお働きいただくなら、それをひっくり返すぐらいのことは簡単ですよ」と申し上げました。あちらを向いているのを、こちらに向けるのは何でもない、と言われるからです。
Tさん夫妻には夫婦別れの理が迫っていることの方が重大でした。そのため、「この際、奥さん、修養科入りを定めなさいよ」と申し上げました。信仰が遅れていると、ろくなことがないので、ちょうどよい旬を与えていただいたのだとも思ったのです。話し合いの結果、奥さんは修養科に入ることになり、この心定めを機に、ご主人の転勤は取りやめになったのです。
自分の都合を捨てないと、神様が働いて下さらないのですね。自分の考えを捨てて心をカラッポにしたところへ、神様が入り込んで下さるのです。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ-朝席のお話」、天理教道友社)