おさしづ配信

心そろうたが自由自在

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「急いで掛かれば身に掛かる。…大層と言えば身上に掛かる。…さあ/\どんな物動かすも、持って歩くも、大勢の力で自由自在、皆心の揃うたが自由自在。…もうこれだけ道も弘まった、もう大丈夫と思う。未だ/\十分やない。一寸の掛かりという事情、これからという心を定めて居たら、危なきは無い。十分上れば下るより外は無い程に。」(明治25・6・18)

「身に掛かる」とは、身体に障りを頂くことでしょうね。あせっても病の元となるし、難儀だな、大変だな、と、先案じしたり口にしたりしても病の元となるので、その二つはどちらもすっきり無くさねばいけませんね。
やる限りは喜んで、楽しんでこそ、一粒万倍の理が頂けます。いや、楽しめること自体だけでもありがたいことです。そして、一手一つに心がそろうことが、神様がとても喜んでくださるのですね。
夫婦でも、親子でも、なかなか心が一つにそろわぬものです。そろうためには、わが身かわいいの心を捨てて、相手を思いやり、たすける心になることが必要です。この互い立て合いたすけ合う心、これが陽気ぐらしの土台であり、だからこそ自由自在の理を下さるのですね。
この明治二十五年ごろは、教祖の教えに感激して続々と道一条に飛び込む人が多かったので、道は燎原の火のごとく伸びていきました。だから、明治二十年代、三十年代は、お道の歴史の中で最も勢いよく伸びた時期であったように思われます。
教祖の口伝に、「神がこの屋敷へ天下って七十五年たてば、日本あらあらすます。それから先は、世界隅から隅まで、天理王命の名を流す」という言葉がありますが、海岸への道は大きく遅れています。もうこれだけ広まったと、一服できるところではありません。
日本だけですら、お道の人はまだ全人口の一割にも達していません。この気仙地方には一分そこそこでしょうね。岩手はお道の広まりにくい土地でしたが、それを変えていかねばなりません。変えて見せましょうや。
そのために、道一条に続々と飛び込んでほしいなと思います。特に二代目、三代目たちが。初代の人たちも、子供ひとり一人前になったら道一条に飛び出すことです。そのほうが利口ですよ。ぼやぼやしていると、しまった、という日が来ますよ。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)