おさしづ配信

難儀さす親あるか

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「どうもこんな事となあ、更に思うな。…何か嬉しい帰るは何も言う事要らん。… (押して、教のをやという処)…一時堪いられん。先々満足諭せ。難儀さす、不自由さすをや有るか無いか。」(明治32・4・1)

長い道中には、こんなことがあってよいものかと、納得できない、耐え切れないことだってあるものです。そんな時、そう思いかけても、さらさら思わないようにブレーキをかけて、
いまのみちいかなみちでもなけくなよ
さきのほんみちたのしゆでいよ (おふでさき 三号37)
と自らを慰め、励まし、今のこの難儀苦労が大きければ大きいほど先の楽しみが大きくなるのだと思い直すことだ、とおっしゃっています。
また、親神様は親なのだから、子供である人間に、ただ難儀させよう、不自由させようとなさるわけはないのですね。将来のために、先の楽しみのために必要な難儀不自由を、一時の間させてくださるのですね。
今の時代は昔よりも、自分本位な親が多くなっているような風潮ですが、その半面、子供に必要な難儀不自由さえもさせまいとして、情のかけ違いをして、結局子供の将来をダメにする親のほうが多くなっています。
山は焼けても山鳥たたぬ、と言われます。山鳥ですら、雛を抱いている時は、山火事が迫ってきても飛び立とうとせず、従容として、焼け死んでも雛を離さず抱き続けているそうです。人間でありながら、こんな鳥にも劣る親がだんだん多くなるようで、残念ですね。
わが子のためなら、食べんでも、着んでも、眠らんでもという心、この心を、わが子のみならずどんな人にも注げるようになったら、本当の人間だそうです。
本当の人間になると、思えば思ったとおり、言えば言ったとおりに成ってくるし、常々どんな中でも、明るく陽気に勇んでかかれるようになります。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)