おさしづ配信

残念

おさしづ配信

「残念の理ほど怖わいものは無いで。残念の理一代で行かにゃ二代、二代で行かなゃ三代、切るに切られんいんねん付けてある。これは退くに退かれん理によって。なれど神に切る神は無い。なれど切られる心はどうもならん。仇言にも捨言葉神は大嫌い。」(明治24・1・28)

八つのほこりの中に「うらみ」というものがあります。普通、恨み残念と続けて使われるので、この残念と恨みは似たものとして扱ってよいかと思います。恨み残念が人を死に追い込むこともあり、”うらめしやー”と、死んでも死に切れない姿で表現されます。ですから「一代で行かにゃ二代、二代で行かにゃ三代」となって、切るに切られん、退くに退かれんいんねんをつけることになるのです。
だから、捨て言葉、切り口上は怖いな、ということになります。結局は自己本位の心が相手の心を察し得ずして、捨て言葉や切り口上でものを言うので、相手の打撃も分からないのですが、相手は、死んでも忘れんぞ、と思い、この恨みはらさずにおかんぞ、と思い定めるでしょうね。
特に、色恋沙汰とお金の問題が一番深刻でしょうね。不足の心を持つのも持たせるのも、どちらも切る理につながります。憎しみも恨みもまた同じ理と言えますね。だから、つなぎに切れ、表通りを通れず、裏道をこそこそ避けるように通らねばならぬ運命に陥っていくのでしょうね。
Tさんはひざに水がたまり週に二度病院で水を取らないと歩けなくなってしまい、噂を聞いてこの布教所へ来てくれました。「一度嫁いで、居てくれという中を振り切って出て来たんでしょう」と申し上げ、それがどれだけ相手に恨み残念を与えたか、それが相手にも自分にもどんな結果になっていくのかについて、いろいろお話しさせていただいたら、はらはらと涙を流しました。それ以来、医者から生きている限り週二度水を取るほかないと言われた病気が良くなって、水がたまらなくなったのでした。
でも、それを話の種にどんどんおたすけしないと、再発したり、別の病気に出たりします。お詫びだけでは償いにならないので、人に与えた恨み残念をはらし、償うだけの通り返しの道が必要です。これが前生過去の償いとなるからこそ、おたすけが必要なのです。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)