おさしづ配信

小言はこれ嫌い

おさしづ配信

「不思議の中で小言はこれ嫌い、陽気遊びのようなが神が勇む。余儀無きの処だけ済めばよい。」(明治23・6・17)

「不思議が神である」(明治37・4・3)というお言葉もあるくらいで、神様と小言が同居するわけはありません。「これ嫌い」となるのは当然です。
世の中には口を開いたら必ず小言を言う、小言幸兵衛という人がいるものです。全然素直でなく、かわい気のない人ですから、神様どころか人間にも嫌われるに決まっています。
ところが、案外ご本人は自覚がないのですね。自分で自分の顔が見えないように、自分の癖性分というものは、分かっているようで分からないのですね。無意識のうちにうっかりやっているのですね。
お通では、愚痴は腐る、不足は切れる、と言います。小言は不足と近いでしょうね。陰湿な愚痴よりまだ良いかも知れませんが、つなぎが切れてはこれも困ります。損です。
陽気ぐらしをさせたい親神様の思召とは反対の心で、人をたすける心でなく、わが身かわいいの心が強いから、つい愚痴も不足も小言も出るのですね。
「陽気遊びのようなが神が勇む」とおっしゃっています。
「陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という」(明治30・12・11)というお言葉もありますので、陽気遊びのような心とは、結局まわりをたすける心にほかなりません。この心なら神が勇むとおっしゃいます。人間創造の目的にかなうので、神様が手を打って喜んでくださるのですね。
小言を言うまいと努力するだけでは不十分なので、積極的におたすけさせていただいて、だんだんたすかっていただく人が多くなるにつれ、いつしか小言が出なくなるのですね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)