おさしづ配信

十五才までは

おさしづ配信

「十五才までは皆んな事情あり、前生いんねんのさんげ。案じる事は要らん。十五才まで分かるなら、尽くす理で払う。」(明治24・6・4)

「十五才までは親の事情」(明治24・3・12)というお言葉もあります。十五歳までは、子供がどんな病気をしても、転んで怪我をしても、全部親に対するお仕込みであります。
親と子は身体は別々でも、不思議なつながりがあるのですね。親夫婦が心のすれ合いをすると、ちゃんと子供の熱が上がります。子供は親夫婦の心の葛藤のバロメーターみたいなものです。
「尽くす理で払う」とありますね。尽くすにも、心を尽くす、身体を尽くす、物や金を尽くすなど、世のため人のため、いろいろの尽くしがあります。真実誠を神一条のご用の上に、人だすけの上に尽くす一切を含みます。
それは一つには、前生悪いいんねんを積んだのに対する罪滅ぼしでもあり、通り返し、埋め合わせでもあります。一つの借金払いでもあります。その間は本当は尽くしとは言えないのであって、それが済んでからが本当の尽くしかもしれません。一割はお礼だから、それ以上尽くしてこそ本当の尽くしとも言えます。
「日々尽して嬉しい。…日々嬉しい一つの種は、一粒万倍に成りて日々治まりて来る」(明治24・12・19)というお言葉もあります。仕方なく、しぶしぶ尽くすのでは、本当の尽くしとは言えないでしょうね。もちろん、一粒万倍の理は頂けなくなります。
梅谷四郎兵衛先生は、大阪で手広く左官業を営んでいました。お道にお引き寄せいただき、おぢばにひのきしんに出ていた時、「仕事にあぶれて大阪くんだりからここまで来ているぞ」という陰口を聞き、腹を立てて帰ろうとしました。そしておやしきを出ようとした時、教祖の咳払いが聞こえ、そのとたんに足が止まり、腹立ちも消え去ったのでした。
翌朝、「四郎兵衛さん、人がめどか、神がめどか。神さんめどやで」と、お言葉を頂きました。
もしあの時帰っていたら、今日の船場大教会はなかったかもしれませんね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)