おさしづ配信

これではと思う心

おさしづ配信

「さあこうしたなれど、これではと思う心で居ては、道のために心を尽くした事が薄く成る。」(明治29・9・6)
これだけ尽くしたのにこんな状態では、と思うと不足の心が出ます。不足の心が出ると尽くした理が薄くなるのは自然です。置いた肥を取るようなものです。楽しめば一粒万倍に増えてきますが、不足したらそれが減ってしまうので、いかにも損です。
目先の結果にとらわれず、神様を信じ、もたれて、先を楽しむ心になれば、不足・案じ・迷いの雲が晴れて、先の見通しが明るくなります。
いんねんの自覚が十分でないと、つい、感謝と喜びが薄くなるものです。いんねんを自覚するには、おたすけが一番です。おたすけ先が、こちらのいんねんを教えてくれます。たとえ、おたすけがうまく行かなかったとしても、自分のいんねんを悟らせてもらえれば、ありがたいことです。
世の中は利害損得が決め手となって動いています。上を見れば、権力を、名誉を争っている姿があります。だから私たちは、ともすると、打算的、取引的な考え方に染まりがちなものです。
お道の考え方と、世の中のやり方とでは、相反することがたくさんあります。お道では結果を求めず、ただ尽くす一方です。底なしの親切で、程度を超えた施しを喜んでさせていただくのです。それも、限りない天恩に比べたら微々たる恩返しと思って行うのです。
受けた恩と尽くした心との差し引き勘定は、神様がちゃんとして下さるので、安心してお任せする方が賢明です。「余れば返す」と言われるのですから、そのお返しが頂けるくらい頑張って尽くす方が楽しみですね。そうして、いんねんが切り替わり、徳が積めたら、求めずして、一切が喜べる姿となってきます。
それまで、一代通ったので足らなければ、二代、三代と努めていけば、先へ行けば行くほど明るさが増してきます。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ-朝席のお話」、天理教道友社)