おさしづ配信

どんな仇でも

おさしづ配信

「取次をやの使いなら、をやの代わりや/\。をやの代わりならどんな仇でも、仇にして隔てヽくれな。」(明治21・8・6)

お道のお話はすなわち、親神様が教祖を通じて教えてくださったお話ですから、神様のお話と申し上げてよいわけです。お道のお話を取り次ぐ時は、神様のお話の取次人となるわけです。おさづけを取り次ぐ時は月日の名代と言われますが、お話を取り次ぐのもまた同じです。
相手が嫌な人でも、憎い人でも、敵や仇であろうとも、皆親神様のかわいい子供に変わりはないので、いわば兄弟姉妹なので、「隔てヽくれな」とおっしゃいます。

「どんな者こんな者、者区別は無い。並んで居る者皆兄弟、一家内なら親親兄弟とも言う。それ世界中は兄弟、中にこの道に奔走という心定めて、今日の日であろう。」(明治32・8・6)

十年も過ぎてから、同じ日に全く同じようなおさしづがありました。あんな人こんな人と隔ててくれるな、とおっしゃり、世界中は皆兄弟姉妹や、ともおっしゃっていますね。愛町の初代会長様のお話の中に、「この道は敵を味方にする道や」とお聞かせいただいたことがあります。どんな敵も、どんな極悪人も、どんな嘘つきも、どんな恩知らずも、来る者はこばまずに温かく迎えるのがお道の人ですね。
そして、教祖が「喜ばさずには帰されん」とおっしゃったのだから、おぢばの出張り場所で、教祖の代理を務めるのだから、という心で接することです。
好き嫌いは理屈を超えた感情ですが、親の心になって、好き嫌いを超えて接していけるようにならねば、取次人とは言えなくなります。さらに、敵を味方に変えるところまでいかねば、本当ではないのですね。
敵に感謝ができれば、一歩味方に近づくことになります。敵を味方にしたら、一ついんねんが切り替わることになるでしょう。
教会にも、すりや泥棒が出入りするらしいのです。お道の人は、人のよい人が多いので、いいカモなのでしょうね。そんなすりや泥棒にも、保安の人は頭を下げて、どうぞ、と入れてくれます。世の中では、人を見たら泥棒と思え、と警戒するのを常識とするのかもしれませんが、お道の人は、どこの馬の骨かと思っても、どうぞと迎え入れないわけにはいかないのですね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)