おさしづ配信

心勇めば障りなし

おさしづ配信

「さあこの道は、心だけの道である/\。どうせこうせ言えん。言えんがよく聞き分け。人間というは、身の内かりもの・かしもの/\、心だけは我がの理。心の理、よう聞き分けにゃ分かり難ない。どういう事もこういう事も、皆世界を眺めて心にたんのう/\。心に楽しみ無うては働けようまい/\。身の内速やかで心勇む。心勇めば身の内障り無きもの。」(明治33・6・1)

かしもの・かりものの理が分からねば何も分からん、というようなお言葉もあります。これは本当に重要な部分ですね。
僕が東京第一師範学校(現・東京学芸大学)の英文科で学んでいた時、担任は石井正之助という先生でした。ヘリックという英国十七世紀の詩人の研究では、日本での第一人者だったようです。この先生が病気になられた時、神様のお米(御供さん)を手紙に入れて送ったら、大変喜んでくださり、ご守護頂いたのでした。
御供さんだけでなく、お道の教理を、病のさとしについて若干触れてお伝えしたら、この「かしもの・かりもの」に似た表現がヘリックの詩の中にあるとおっしゃって、紹介してくださいました。
ヘリックはキリスト教の牧師でもあったので、キリスト教の教えの中に似た部分があったのかもしれません。というよりも、詩人の直感によって、そう悟ったかもしれないのです。
ついでに申し上げれば、同じ十七世紀の英国作家、ジョン・バニャンの“The Pilgrim’s Progress”(『天路歴程』)の中に、お道の八つのほこりに近い表現が出ていました。キリスト教には原罪の思想が根底にありますが、罪の元を心のほこりに似たものととらえている考え方は珍しいなと思ったものでした。
これは僕が学生時代に感じたもので、お道とキリスト教の異同について研究したい人には、一つの興味深いテーマになるでしょうね。
かしもの・かりものの理がよく分かり、いんねんの自覚ができてこそ、たんのうの心も生まれ、喜びの心、楽しむ心、勇む心が出てくるのですね。
聞いたら、誘ったら、喜んで速やかに身体で実行に移していくところ、病も速やかに治まり、心も勇み、心が勇めばさらに病は再発できなくなります。勇んでかかればほこり散る、とも言われます。病だけでなく、家庭も事情も結構を頂きます。
はたはたを勇ませるのがおたすけですね。またおたすけによって、自分自身が勇めてくるのですね。おたすけしないと、勇めないし、病気になっても当然ということになります。
病むよりは、おたすけしているほうが楽です。病んだと思って、病む代わりのおたすけと思っておたすけに出るのでないと、なかなか出らないことが多いでしょうね。一生病まずに通れる人はないでしょう。いつか病む代わりと思って、おたすけに出ることです。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)