おさしづ配信

案じは一つも無い

おさしづ配信

「この道元草生えの中から言えば、しんどの仕損というは教祖や。何も楽しみ無しに、一日の日の遊山もせずに越したはしんどの仕損。なれど、年限の間にほのかのように説いたる事が今の処にちょっと見えてある。皆掛かりというは、ふわふわしたるものなれど、年限追うて組み上げたる。これから見れば、案じは一つも無い。心の案じあってはならん。今日の日待ち兼ねて待ち兼ねてせにゃならん。」(明治40・5・31)

教祖五十年のひながたは、社会並みに考えれば、苦労の仕損で終わり、何一つ良い結果を見ずに暮れたと言っても間違いでないようなものでした。
ただの一日とて楽しみも気晴らしもなしに、ご苦労の連続でしたから、愛町の初代会長様は、「親様のことを思えば涙が出る」とおっしゃっていました。同じようにお通りになったればこそなのですね。
東本大教会初代の中川よし先生もまた、同じようなご苦労を通ったので、ある日のおぢばでの講演の折、「教祖のご苦労をお聞きするだけでも…」と言うやいなや、涙があふれてきて、言葉にならなかったのでした。そのまましばらくその状態が続き、あちこちにもすすり泣きが始まり、千万言の雄弁もかなわぬ深い感動を聴衆に与えたのでした。
その教祖のひながたに感激して、一切をなげうって道一条に踏み切った人たちが、明治二十年代、三十年代には続々と出たのでした。
今もなお、これから先も、教祖のひながたは人類のひながたとして、燦然と光輝くはずです。それを慕って道一条に飛び込む人が、特に若い人たちが、続々と出てきてほしいなと、節に希望したいものです。
いついかなる時も、教祖を思い出せば勇気が出てきます。教祖のことを思えば、こんなことでは申し訳ないという思いが湧いてきます。ありがたいことです。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)