ほこりというものは、すうきり嫌いや。大きな容れ物、水なら、一寸に知れまい。小さい処の容れ物中に水なら、一寸濁り入りても直ぐ分かる。水の中のこれまで、すうきり洗い替え/\/\て。澄んだ/\/\小さい容れ物に、生涯という心定めは、これ知らして置く。(明治21・10・29)
大きな器に清水がいっぱい入っていれば、爪の垢ほどの泥を入れても数分で元の清水に戻るでしょう。けれども、それは神様にお供えできないだけでなく、人にも飲んでくださいとは言えません。それと同じように、心のほこりも、たとえわずかでもその心が入れば、神様にはお受け取りいただけないでしょう。人はごまかせても、神様と自分の心とはごまかすわけにはいきません。
お道のお話を聞けば聞くほど、いかに間違っていたかがよく分かってきます。飲めない井戸水は底まで出してしまって、新しい飲める水を入れて、洗い替えなければなりません。それと同じように、心もすっきり底まで洗い替えなければなりません。
心定めは大きいほど結構ですが、当面の目標は、できるかできないかのぎりぎりの線から始める必要があります。一生懸命やりますと言ったって、漠然としています。小さい目標から、だんだん守り切っていきながら大きくしていくのがよいですね。
生涯の目標ははっきり定め、年々の目標、月々の目標、日々の目標を具体的に定めて、だんだん近づいていくのがよいですね。形と共に心が洗われていくことが多いものです。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)