おさしづ配信

親となれば子は可愛というもの

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古き者は親と思え。親となれば子は可愛いもの。皆満足をさして治めにゃならん。子供は子供だけの事。腹を立てては、親であらせん。親となれば子を可愛いとの心にならねばならん。子を憎む心では親でない。(明治21・6・30)

元斯道会は、後に河原町大教会となった母体ですね。河原町大教会の初代会長・深谷源次郎さんは「結構源さん」と呼ばれ、結構や、結構やと言い続けた人です。朝から晩まで結構、結構と言っていたら、腹が立ったり、憎んだりする隙がないでしょうね。
信仰の年限だけは重ねていても、まだ一人もおたすけしていない、手引いていないという人がいたら、その人は親の心になっていないと言うべきでしょう。おたすけをしても、いわば生みっ放しで、後は私に任せ切りの人もいますが、導いただけでもまだいいですね。
このおさしづでは、「古き者は親と思え」と言われています。お道で先輩の人は親と思い、先輩は後輩を子供のようにかわいがる、というようであれば、まことに結構ですね。
私たちの一番の親は親神様であり、教祖とは二人一つの理です。その親の心がわかるようになって、成人した、と言えますが、親を思う心より、子を思う親の心の方が深く、広く、大きいのですから、親の心がわかったといっても、まだわからないことの方が多いのかもしれません。
だから、たとえ納得できないことでも、それを受ける心、無理でも受ける心も必要な場合が少なくありません。絶えず心を練って、親の心との差を縮める努力が必要ですね。
河原町の初代の言葉に、「病人は喜ばさにゃ神様のご守護はない。いずますようではたすからん。陽気心に神が入り込んで下さるのや」というのがあります。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ-朝席のお話」、天理教道友社)