おさしづ配信

早い目に修復

おさしづ配信

「どんな事でも、人の事と思わず、飛び込んで運ぶは神の望み。あちら破れこちら破れ、千切れ千切れになって了うてから、どうもならん。寄せるに寄せられん。繋がってある間に修復すれば、どんな事でも出来る。早い目に修復さえすれば、どんな者でも続くと言う。」(明治39・5・26)

「人の事と思うたら人の事、我が事と思うたら我が事」(明治35・9・6)というおさしづもあります。「見るもいんねん、聞くもいんねん」とも教えられます。見た限り、聞いた限り、世話をするのはなおのこと、みんな自分のいんねんなのだから、他人事にせず、打てば響くように行動し、おたすけさせていただくことが必要です。
一度おたすけさせていただきたいと思ったら、さっと足を運び、断られても断られても、何十回でも何百回でも足を運ぶ必要があります。あるいは、ちょっと間をおいて運ぶほうが良い場合もあります。ここでは、「飛び込んで運ぶは神の望み」とまでおっしゃっています。
つなぎの切れた人たちは、「寄せるに寄せられん」とおっしゃっています。そこまでならないうちに、早めにつないであげれば、「どんな者でも続く」と仰せなので、切れている人たちを三年以上放っておかんことです。
人によっては、十年もたってから、あるいは二十年以上たってからでも、つながってくる人があります。けれども、そんな人は少ないので、やはり三年以上は放っておかんことです。一人ひとりのおたすけ人が、責任をもって一人ひとりを担当し、絶えず目をかけ、時々声をかけてあげることです。
一人の人が少なくとも三人は担当させていただいて、毎日行くべき人、一日おきでよい人、二日おきでよい人と区分けし、人によっては一週間に一度でもよいでしょうが、おたすけにかかった時はそれ以上延ばさぬことです。
おたすけは毎日出るべきものです。一日三度の食事は忘れないで、一日一度出るおたすけは忘れているというのでは、三度も食べる資格はないと言われそうな気がします。習慣になれば、出ないほうがおかしくなる、落ち着かなくなるものです。
かわいそうで放っておけない人はいくらでもあります。それが分からないようではおたすけ人とは言えません。
たいていは悩みをかくしたがるので、それを吐き出させるのが第一のおたすけです。それには自分のほうから吐き出す必要があります。中には、しゃべりたくてウズウズしている人もいます。そんな人には何時間でも、何日でもしゃべっていたことです。聞き役も一つのおたすけです。しゃべり尽くした後へ、一言お話しすればよいのです。相手がしゃべってる中に、その答えも見つかるものです。
口の軽い人には打ち明けてくれないものです。信用される人にならないと、おたすけもできないものです。失敗したり、恥をかいたりしながら、とにかくたすけたいという心で、飛び込んでおたすけさせていただくことです。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)