おさしづ配信

無理に来いと言わん道

おさしづ配信

「難儀不自由苦労艱難の道連れて通りて、種と言う。種無くして実はのろうまい。…道という、道に我という理どうもならん。我は要らん。…来ん者に無理に来いとは言わん。来る者に無理に来なと言う道やない。又無理にどうせいこうせいとは言わん。来る者にどうせいとは言わん。無理に言わいでも仕舞には成りて来る。」(明治30・11・27)

おかきさげの中に、「どうせこうせこれは言わん、これは言えん。言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという」
とあります。「来い」とか「来るな」とか、無理に言わない道なのですね。来たくなくても、来なければならなくなる人もいれば、来たいと思っても来れなくなる人、いたいと思ってもおれなくなる人もあります。心一つが種となって、いろいろの形ができてきます。
この道の邪魔になるのは、おれがおれが、という「我」の心ですね。この「我」が出ると、目の前に膜を張ったように、見えるものでも見えなくなる、と教えられました。この「我」を取り、素直になって、あほうになって、難儀不自由も苦労艱難も喜んで通れば、それが種となり、やがて立派に実る日が来ると言われます。
この道は、自分でやるのではなく、神様が呼んで下さる道ですね。自分で生きているのでなく、生かされているのと同じく、自分の力で通るというより、神様に道を通させられる道でもあります。この悟りが重要ですね。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)