おさしづ配信

ひながたの道を通らねば

おさしづ配信

「難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。皆一つ一つのひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。あちらへ廻り、日々の処、三十日と言えば、五十日向こうの守護をして居る事を知らん。…世界の道は千筋、神の道は一条。世界の道は千筋、神の道には先の分からんような事をせいとは言わん。…ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい。これをよう聞き分けて、何処から見ても成程やというようにしたならば、それでよいのや。」(明治22・11・7)

教祖の五十年のひながたの道は、親の苦労の中を通り抜けた人なら、涙なしでは語ることができないでしょう。それを思えば、われわれの苦労は、苦労のうちに入らないようなものです。
昔、ある先生が子供をすべてなくしてしまい、さすがに心を沈ませたといいます。だれが慰めても立ち直れそうにないところを、一人の方が教祖のことを話しました。教祖もまた、子供たちに先立たれています。それを聞いたその先生は、はらはらと涙をこぼし、気持ちを立て直したということです。
世界中のあらゆる宗教の開祖の中で、五十年も教えを説いた人はいません。それも、教祖は教えを説くだけでなく、自ら実践して、人間の生き方のひながたとしての日々を通られたのでした。それを、心に銘じるべきですね。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)