おさしづ配信

曇る心

おさしづ配信

「これ程尽くすのにと、これなら治り治りたらなあと、これさい治りさいしたなら、これさいなあと雲る心は、誠に言えんと。」(明治21・8・3)

曇る心は、不安の心とも言えます。不足という文字には「足」がついていますが、足は、恩を踏みにじるとか、恩人に足を向けて寝られないとか言われるように、「恩」との関係が深いのですね。恩返しの心が足りないから不足にもなるのでしょう。
埃は、吹けば飛ぶような小さなものでも、積もり重なれば山のようになります。心のほこりも、自分の一生だけでなく、過去何代も何代も積み上げてきたのを、払う努力をしなければ、それこそ富士山のように高くなっているのかもしれません。私たちが一代で崩せるのは、その山の一部で針をつついたくらいに過ぎないのかもしれません。だから、愛町の初代会長様は、一代を布教して出直し、また一代布教して出直し、もう一代布教と、三代を道一条でやり切ったら、少しはいんねんが切り替わるかな、という覚悟で布教を始めたんだよ、と言われたのです。
それなのに、これほど尽くしているのに、どうして病気が治らないのか、と思う。神様の目は節穴ではありませんから、ちゃんとその人に応じて見分けをして下さっているのです。我田引水的な見方は捨てて、神様の計らいに全面的にお任せすることです。
尽くす、といっても、例えば教会への勤めと、おたすけの両方があります。そのどちらも大事で、片方だけでは車の車輪が一つしかないのと同じで、同じ場所をぐるぐる回っているだけで前へ進みません。信仰も、この両方をやり切ることが必要です。
あらゆる人間思案を断ち切り、一家の都合を捨てて、仰せのままに従います、という尽くし方で信仰に励むなら、だんだん自由自在の理が頂けるようになります。
おたすけに当たっては、寝ても覚めても、立っても座っても、その人をたすけたいということだけで頭をいっぱいにし、門前払いを食わされても、嫌がらせを受けても、決してあきらめないという執念が必要ですし、草の根分けてもおたすけ先を探し出す根気も、たとえ相手が出直してもくじけない信念も必要です。
そうして通ってみて、初めて教祖のお心がわかってくるのです。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ-朝席のお話」、天理教道友社)