おさしづ配信

案じてはならん

おさしづ配信

「今年で行かにゃ来年という、この心持って、案じてはならん。大きい心持たにゃならん。天然という理聞き分け。…天然というは、心に台を作らにゃならん。天然というは、心に案じて居てはならん。」(明治34・7・28)

お道では、一日の遅れは千日の遅れともなるので、たった一日でも遅れぬよう心がけねばなりません。しかし、「急いて急かん道」というお言葉もあるので、この兼ね合いをつかめてこそ、一人前と言えるのでしょうね。

身上願いに対するおさしづには、「案じてはならん」というお言葉が、必ずと言ってよいほど出てきます。「身上かしもの、かりもの」ということがよくわかったら、案じる心は出るはずがないのですが、なかなかそうはいかないことが多いのかもしれません。
粋は身を食う、と言います。人間は、自分の好きなもので身を滅ぼすことが多いという意味です。好きな酒、好きな女、好きな賭け事など、自分では、これではいけないと思いながらも、やめられないのですね。自分で自分の心が自由にならないのですから、ましてや体も、他にも、自分の自由になるものではありません。だからこそ、病気になれば、これからどうなるのか、と案じるのでしょう。
しかし、体は、心次第でどうにでもなるのだ、心が体を動かすのだということがよくわかってくれば、案じの心は消え去ります。案じ心を捨て、神様にもたれ切ったら、広く大きな神様のお心にゆったりと抱かれて、天然自然の理を楽しむことができます。
成ってもよし、成らなくてもよし、と、一切を「成ってくる天の理」のままに、喜んで受ける心にさえなれたら、こんなに安楽なものはありません。悠々と楽しんで生きていくことができます。けれども、これは一身上のことにおいてであって、世のため人のため、神一条の務めを果たすためには、「たすけせきこむ」と教えられるとおり、一日の遅れも断じて許さない、という厳しさが必要です。また、成ってくる理を待つだけではなく、成らせる理をつくる努力をして、やがては天然の理を招くような歩みも進めなければなりませんね。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ-朝席のお話」、天理教道友社)