おさしづ配信

明らかな心

おさしづ配信

「年限を経た中に、楽しんだ日があれど、苦しみ多い。楽しみは四分、六分は苦しんで居る。ならんならんの日を経った。そこで明らかな事待つであろ。明らかな事待てば、日々に明らかな心を持って、日々運んでくれにゃならん。…これがいかん、どれがいかん、教一つの理を放って了て、世界一つの理取り運び、通ろうと思たて通れやせん。」(明治37・7・27)

明らかで楽しみな結果を待ち望むなら、明らかな心で、楽しみつつ日々を通らねばならないのは、ごく自然なことと言えます。
お道のお話を聞いても、教えにケチをつけて、この言葉は実行できるがこれは実行できない、などと勝手に取捨選択しては、通ろうにも通れなくなってしまいます。
ともすると、人には、お話を自分の都合のいいように聞こうとする傾向があります。この話は自分より妻に聞かせたい、夫に聞かせたい、と、自分のことは棚に上げていることもありがちです。
また、お道の生き方が、社会一般の生き方と比べて損で、割に合わないから、こんな教えを守っていたら生存競争に負けてしまうのではないか、と考える向きもあるでしょう。
たとえば教会の月次祭でも、農家のかき入れ時とぶつかったり、義理ある人の冠婚葬祭とぶつかったりしたら、勤められなくてもやむを得ないではないか、と考えたりします。
愛町の初代会長様の信仰は、そうした事情が神一条の務めとかち合ったら、断じて損得や義理・人情を捨て、神一条に踏ん張る、というものでした。神一条の勤めを外してお金を儲けたとしても、お金は良いことには使えず、つまらぬところにはき出す結果になり、結局は損をするに決まっています。
お道に入っても、教えを放っておいて、世間並みに通っていると、いずれ通るに通れない日がやってきます。それよりも、いまはどうあれ、末の勝利を楽しむ方が賢明と言うものです。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ-朝席のお話」、天理教道友社)