おさしづ配信

旬を見て生える

おさしづ配信

「出けん者言うた処が出けん。なれど、年限で出けるようになる。今日種を蒔いて今日に出けん。旬を見て生える。又実が出ける。」(明治31・3・28)

年限がたってもできない人もあるでしょうが、たいていは年限と共にだんだんと心が成人します。このおさしづの「旬を見て生える。又実が出ける」ということ、特に女の人は“つなぎ”の心に恵まれているので、成長期の教育には女の人が向いているのですね。男もまた、教育にあたっては、特にこの“つなぎ”の心が必要ですね。
T子さんは、修養科へ行けるようになるまで何年もかかりましたが、やっぱり年限が必要だったのでした。むしろ遅れたほうが良かったのかもしれないのです。
T子さんが冬のある寒い日に、巡教の先生にお目にかかった時、鼻の頭に汗をかいていました、それを見た先生は、「あなた、心臓の病気でころっと逝く心配がありますね。修養科を定めるといいね」と言われました。
高校生の娘さん一人置いていくわけにはいかないので、卒業まで待っていただきたい、とお願いしました。ところが娘さんは、卒業して地元に就職したものの、一年もたたずにそこをやめて上京し、保育短大に入学したのでした。家を無人にして行くわけにもいかず、入学したのを途中でやめさせるわけにもいかず、困ったものでした。
けれども、延ばしているうちに、延ばした結果と思える良からぬことが続くようになり、悩んだT子さんは、一日に三回も訪ねて来たりしました。お話し合いをしていると、心がすっきりするのですが、家へ帰るとまた迷い、また訪ねて来ては練り合うということを繰り返しました。
それを三日も繰り返してから、やっと肚が定まり、何月から参りますと月を定めたのでした。そうしたら、弟さんが上京した折に娘さんを訪ねて説得し、娘さんは学校をやめて帰宅してくれました。ところが今度は、娘一人置いて行くのは心配なことが出てきたのです。でも、しっかり定めないと、いつまでもそんなことが続くと悟ったので、思い切って修養科へ入ったのでした。
修養科へ入って一ヵ月ほどすると、T子さんから電話がありました。「娘がつわりで苦しみ、堕ろしたいと言っているので、お願いします」という内容でした。早速出掛けると、途中でT子さんの離婚したご主人、つまり娘さんの父親とばったり会いました。これも不思議でした。その方も中絶には反対でした。私は娘さんに、中絶の結果どうなるかについて具体的な例をいくつもお話しし、喜んで産む心になっていただきました。そしておさづけを取り次いだら、つわりが楽になったのでした。
T子さんが家にいたらその結婚に反対だったでしょうが、僕はT子さんを説得して、修養科から帰るとすぐ結婚式をさせました。そしてそれから半年もたたずに、娘さんは無事出産したのでした。
生命のないところ、修養科を定めたおかげで凌がせていただき、だいぶん遅れましたが、やっと旬を得て行くことができ、そのおかげで一家がめでたく治まったのでした。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)