おさしづ配信

大層の理は受け取らん

おさしづ配信

「まあまあどんな事でも談示の上と言うてある。…義理々々と人間心の理を立てる。人間心の理では、いずれいずれの理が出る。…大層の理は受け取らん。すっきり受け取らんで。」(明治24・2・8)

人間心、人間思案、わが身思案、自分考えなど、似たような表現がいろいろありますが、義理を思う心もまた、人間思案に入るのですね。「人間の義理思えば、神の道の理を欠くで」(明治21・10・5)というお言葉もあります。さらに、「人間の義理を病むのは一のほこり悪気とも言う」(明治24・11・15)とのお言葉さえあります。
話し合い、談じ合い、練り合いは、本当に大事ですね。餅をつく時は、つくく前に練らなければ、粒々がはねてしまいます。十分練ってからつくと、粒々がなくなり、一つの羽二重のような餅が出来上がります。
“一手一つ”というお言葉がお道にはよく使われます。何人でも、何十人でも、何百人でも、一人のように心が合うことを言います。米粒が一粒一粒だったものが、練って、ついて、一つの餅となるように、粒々という個々の考えをなくし、世のため人のため、たすけたい誠真実の心から、だんだん人間思案が消え去って親神様の思召にぴたりと合う時、初めて神様にお入り込みいただけ、お働きいただけるのですね。
心が一つに定まっても、しぶしぶであったり、愚痴不足が残ったら、邪魔になります。すっきりとして、喜びと感謝と勇みがあふれんばかりにみなぎるところまで行かねばなりません。「一つ楽しんですれば一粒万倍にも返す理である」(明治36・9・18)というお言葉も出ています。
難儀大層の心が少しでもあっては、「すっきり受け取らん」とあります。すっきりとは全くという意味でもあります。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)