おさしづ配信

隔てるというは破れの元という

おさしづ配信

「ただ一つ皆一手を神の望み。…区域区域だけ心を働き、元に区域、末に区域散乱、これは破れ物に物入れたようなもの。…これを違う物を隔てる理は破れた物も同じ事、何処から種を持って出るやら分からん。…第一隔てるというは破れの元という。」(明治31・7・25)

世の中では、耳鳴りがすると、だれかが陰口を言っているのではないか、などと冗談を言ったりします。耳は聞くためにあるのですが、その役をさせず、だれが何を言おうと聞く耳持たぬ、といった気分の人に、耳鳴りは多く起こるのかもしれません。
だれにでも癖・性分というものがあります。それを直してやろうと注意しても、なかなか直らないと、あいつは言ったってダメだ、と悪いレッテルを貼りつけて、隔ててしまいがちです。しかし、注意する側の自分にも癖・性分はあり、それを自分で直そうと努力しても、なかなか直るものではありません。そう思えば、相手の癖・性分が気になっても、見込みなしと切り捨てないで、どこまでもつないでいくことが大切です。
そうして心を尽くしていくうちに、いつしか変化が出て来ます。このつなぐ心をお互いに使うようにするのが、一手一つに至る基本なのでしょう。
あの人は、せっかく言ってあげても、必ず言い返し、カタキを取るので、あとが怖いから言うのはやめよう、という場合もあるでしょう。しかし、嫌われても、憎まれても、相手のためならかまわない、という誠真実がなくては、一手一つの実を挙げることは難しいものです。切り捨ててしまったら破れの元になります。
このおさしづを伺った郡山大教会初代会長・平野楢蔵さんの言葉に、「自分の心を相手に合わせていかねば、相手を導くことはできん」というのがあります。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ-朝席のお話」、天理教道友社)