おさしづ配信

人を悪く言っては

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「日々の道を通ろうと思うては、人をこぼったり悪く言うてはどうもならん。人をこぼって、何ぼ道を神が付けても、こぼつから道を無いようにするのやで。…人間一生の事は急いてはいかせん。末代の道やもの。急いてはいかせん。天然自然の道に基づいて、心を治めてくれるよう。」(明治23・2・6)

人のアラを拾い、ないがしろにし、こわすような心や言葉を使うようなことでは、道を無きものにするのや、とおっしゃっています。道が無くなったら、どうにもなりません。己もまた立っていけません。行く道が無くなってしまいます。
せっかく器用でやり手で、口八丁手八丁の人でも、人を悪く言ったり責めたりすると、この口のために、徳を落としたり貧乏になったりするだけでなく、道の邪魔になります。やがて道そのものを無くしてしまっては、迷うばかりで、どう通ったらよいかさえ分からなくなります。実に重大なことですね。
やり手の中、一生懸命な人の中に案外これがあるので、やり手の割に良くなれていない人はこれが仇しているのですね。
心で思ってもいけないのですが、口に出すと怖いなと思います。出したら引っ込められなくなります。言霊が幸いするなら良いのですが、仇するのは困ります。けれど、やっぱりどちらにも生きて働くのですね。ですから人の良いところを見つけ、認め、ほめてあげると、言霊が幸いし、相手も自分も幸せにしてくれます。
悪く言えば悪くなり、良く言えば良くなるのですね。繰り返し繰り返し続けているうちに、そんな結果になるものです。心一つが物種、変わらぬが誠、であり、誠なら言ったとおりに成っていくのですね。
人をこぼつ、責める、悪く言うというのよりは軽いように見えるけれど、愚痴不足もまた悪いんねんを積みます、愚痴は腐るし不足は切れる、ろくな結果にならぬのに、それを知っていてさえ、なかなかなくせないでいるのが人の世なのですね。
だから、「急いてはいかせん」ということになるのですね。人を育てるには、二十年もかかって成人式です。何代ものいんねんを変えるには、一代では無理なくらいのものです。ですから、気を長くしないといけないのですね。短気は短命とも言われるのだし、気を長く持って、あせらずにかかることですね。
どうも日本人は、短気な人が多いし、人のことを気にし過ぎる、ちょっかいを出し過ぎる、いらぬお世話をしたがる、といった傾向が強く、かえって損ねてしまうことが多いので、気をつけねばいけませんね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)