おさしづ配信

最初は大きな理で

おさしづ配信

十分の中に、ころりと思やん間違いの理が一寸始まり掛ける。難しなれども、最初一つの理というは、大きな理で持って来る。(明治22・8・9)

人間のやることには、これで十分だ、完全だと思っても、ころりと考え違いをしていたりするものです。だから、最初の始まりかけは実に大事ですね。
そもそも、人間は自分で生きているのではありません。自分の生命も身体もお借りしているのであり、心だけが自分のものなのです。だから、自分の考えで良いと思っても、良い結果が出るとは限らないのですね。生かされて生きているのだから、生かしてくださっている親の親に、すなわち親神様に、理を立ててから始める、というようにしなければ、何事もうまくいかないでしょうね。
親の恩に比べたら神様の恩ははるかに大きく、親の恩は小恩で、神様の恩は大恩となります。「大恩忘れて小恩送るような事ではならんで」(明治34・2・4)というお言葉もあります。親の恩だけでも、海よりも深く山よりも高い、とも言われますので、神様の恩は限度がなく広く大きいのでしょうね。
親にあいさつして一日が始まるように、親神様にもあいさつして一日が始まるだけでなく、何をやるにも、そのことを親神様に申し上げ、理を立てて事を運ぶようにするのが、子供たる人間の当然のことと言えるでしょうね。
大きな理を持ってくるなら、大きなご守護を頂けるに違いないでしょうね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)