おさしづ配信

十のものなら

おさしづ配信

十のものなら九つだけで、一つの理が無く、おかしな心を湧かすようではどんならん。(明治27・12・1)

「十のものなら九つ半まで行ても、後半の事で皆消えて了う」(明治32・6・27)というおさしづもありました。だから 十までやり切らねばならないのですね。
百里を行く者は、九十理を半ばとする心構えで行くのがちょうどいいのですね。水という液体が気体に変わるためには九十九度九分でも駄目なのです。百度にならねばどうしようもありません。百度になってから初めて水蒸気に変わります。
お道以前に、釈迦もキリストもマホメットも、その他たくさんの教えが、十のものなら九つまで教えてくれたのですが、あと一つが分からなかった。だから、この世界は苦(九)の娑婆でした。十のものなら九つまでは共通したものもあるのですが、最も大切な一つが欠けていたので、苦の世界であったのでした。
お道によって初めて、よろず世界の元のいんねんが明らかにされたのでした。九分の一の一つでなく、九つを支えている一つだったのですね。この一つを軽くはできないわけです。でないと、苦の娑婆から抜け出すことができないのです。
K君とM子さんが、病院の帰りに泣きべそかくようにして寄ってくださったことがありました。妊娠してもだったか、妊娠さえもだったが、子供を持てる見込みは九九%ありませんと言われたそうで、大きなショックだったのですね。
「百パーセントダメと言われても子供を頂戴した人がいるのだから、一パーセントの見込みでも結構ではないか。大丈夫だよ」と申し上げ、子供を持てない心遣いや根本の理、子供を頂く心得についていろいろお話しし、二、三心を定めていただきました。それからN君が生まれたのでした。
神様にお受け取りいただかないと、十のもの九つ半までやっても半の理で消してしまいますが、神様にお受け取りいただいたら、十のもの九つ半まで駄目でも半の理で変えていただくということ、不可能ではないのですね。
八方ふさがっていても天があいてるのですから、そんな時は人間思案を捨てて、親なる神様に頼ればよいのです。でも旬を外すといけないので、耳に入ったら軽くしてはいけませんね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)