をびやさんしき許す、…すっきり常の通り/\。さあどうじゃどうした、常の通り産をして了う、常の通り毒は要らず。いつ/\すっきりいんじりとも動かず/\、僅かの日じゃで。皆世界一時、そのまヽ常の通り、これが第一をや人間始め証拠。(明治22・9・23)
教祖が貧のどん底へ急がれてから十六年ほどして、夫善兵衛様が出直され、その後、をびや許しをはじめとして、よろづたすけの不思議が次々と出現しました。をびや許しは、人間創めた親である証拠として、第一番目に始まったのですした。
をびや許しを頂いたら、一切が常のとおりでよいのですから、それまでの習慣とは革命的に違うと言ってよいかもしれません。
昨日、くも膜下出血で脳が死んでいるという人のご主人が来られました。一刻を争うのに、心を定めかねていました。悪いほうに考えないで、自分自身の真実をまず定め、おまかせしてほしいと言っても、スパッと受けられないのです。心次第でたすかるのですが、たすかったらより、たすからなかったらのほうを強く意識すると、心どおりの守護ですから、たすからないほうになってしまいます。
僕が夕づとめの後で行くから、それまでに心をしっかり定めておいてください、と申し上げましたが、行ってもまだ定まっていないので、おさづけを取り次げずに帰りました。心配ばかりで、落ち着いて十分な話し合いもできぬ状況ではあっても、どんと腹を決めて、言われるままにスパッと受け取ってくださらないと、難しいのですね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)