おさしづ配信

智者学者で治まらせん

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「深き何でも十分の学をし、十分の学を治めるよう。智者学者あっても何にも治まらせんで。一つの理を始め掛け、日々暮させたい。思う道もう暫く。日々の理、事情より治まる理が無きという理を治めてれるよう。」(明治23・2・3)

十分の学問を治めなさいとおっしゃりながらも、学問ですべて解決できると思うな、特にこの道はそれで治まるものではない、と、たしなめていらっしゃいます。
いわば学問は紙の上の計算みたいなもので、現実は理論通りにいかぬ複雑なものがあります。成ってくる天の理に従って、日々の現実を適切に処理し治めていくには、理論だけでは不十分で、直感も、予知能力も、豊かな感情もなければなりません。特に真実誠がなければなりません。
僕は小学校以来、どこの学校へ行っても、勉強はだれにも負けなかったと思っているし、クラスのだれもが認めてくれたと思っています。そして日本だけでは満足できず、留学して世界に挑戦してみたいと思ったのですが、愛町の初代会長様にお目にかかって、こんな人は世界広しといえどもどこにもいないな、学問だけではとうていかなわないな、と思ったのでした。
学問でも政治でも、人間の力だけではどうにもならない時代に来ています。学者金持ち後回しの時代はとうに過ぎ去って、そんな人たちが先頭に立ってお道を学ばねばならない時代が来たのですね。このお道は、学問政治以上の道です。素晴らしい道です。おたすけによって、その素晴らしさをつかんでもらいたいものです。
僕は、とことん根掘り葉掘り尋ね、しまいには返事をしていただけないこともよくありました。あとは、直接神様から悟らせていただくほかないことだってありますね。おたすけによってこそ、それができるのですね。だからおたすけが一番楽しみです。
けれど、自分を捨てないとできないことにぶつかります。わが身はもちろん、わが家の都合も、社会の義理も捨ててかからねば、つかめないものがあります。
科学は実験によって、理論を作り、確認し、実証していくのですが、お道もまた証拠信心と言われるくらいで、おたすけの中に実証していけます。
勉強でも、よくできる者ほど質問します。分かれば分かるほど分からないことが出てくるものです。宇宙の神秘も、探れば探るほど新たな神秘が出てくるのと同じです。
心を磨くことと、経験を積み重ねることの、両方から理を究めていくことが必要です。愛町の初代会長様も、あそこまで行けたのは、この二つが相伴ったからと思われます。どんどん質問して恥をかきながら、おたすけをし、壁にぶつかり、やがて直接神様に教えていただけるまでにならせていただくことです。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)