おさしづ配信

心一つで道が道にならん

おさしづ配信

「身上に一寸心得んと言えば、何でも彼でも案じ出て、この道のため出て居るのになあ、この事情必ず持たず、これまで皆話したる。…人間という一代と思うたらどうもならん。…何ぼ一条の道といえど、時々心理にて道は道にならん。人間心の理にて身上迫る理も同じ事、よう聞き分けにゃならん。人間の理というは、どんな理あろうとも、心の理より残らせん。」(明治31・1・31)

道一条に出たのになぜ身上になったのだろう、と不足に思ってはならぬ、とおっしゃいます。何代も間違ってきたいんねんというものは、道一条になったからといって、一代くらいで消えてしまうものではないのです。
我々がやっていることは、富士山を針でつついているくらいなものなんだ、何代も何代も積み重ねた悪いいんねんというものは、塵も積もれば山となるのだから、と思うべきなんだ。これぐらいの覚悟でかかるほうが無難でしょうね。
それに、形だけは道一条で通っていても、心を神一条に徹し切るのは、一朝一夕にはできぬことです。その時その時の心遣いによって、道を通っていることにならぬことだってあるわけです。
愛町の初代会長様は、教会に住み込みの一同に対して、時々「お前たちはいつ道をやるんだい」とおっしゃったものでした。
少なくとも十五年はやり切ってみることです。それでやっと道一条の一人前になれたかな、というところでしょうね。それから十五年が過ぎたら、一つの理は変わるでしょうね。あるいは実るでしょうね。
やり方次第では、最初の十五年で次の十五年にまで届く人もあるかもしれませんが、まず少ないでしょうね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)