おさしづ配信

たんのう

おさしづ配信

「一寸上面身の処不足なって、神さん頼んで救けて貰ろた、といは、それだけの理。物を入れて包んであるようなもの、だんだん分からんように成る。…前々より二度三度の諭し、あらあらの処は浚えた。浚えば水も流さにゃならん。流せば溜まる。溜まれば浚えにゃならん。…日日の理を治めるなら、一つたんのうの理が無けりゃならん。たんのうは改めた心の理…。」(明治24・1・30)

「神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れてしまう」(明治31・5・9)というお言葉もありました。ですから、その場の喜びだけに終わらせず、その喜びをたくさんの人に移してあげて、たくさんの人にもたすかっていただく努力を終生欠かさぬ、という人にならねばいけませんね。
話の種にたすけてくださったのですから、それでおたすけをして、やがて本当のたすかりをいただきなさい、という意味ですね。第一には人間の親である慈悲でたすけ、第二にはおたすけ人の真実でたすけたのですから、その恩を生涯忘れぬためにも、おたすけに励む必要があります。
お話を聞いて今までの間違いに気づき、いんねんを自覚し、心が改まれば、たんのうの心ができたことになります。ものの見方、考え方が変わって人間の生きがいは何かを改めて発見し、”たすかりたい”から”たすけたい”の人に変身してこそ、真のたすかりとなります。運命も変わります。
病気のおかげで魂の洗濯ができ、身体だけでなく魂もたすかってこそ、真のたすかりですね。
やまひのすつきりねはぬける
こころはだんだんいさみくる(みかぐらうた 四下り目八ツ)
となってこそ真のたすかりで、それは”たすけたい”の人に生まれ変わらないと無理ですね。
そのためには、日々の理が治まるよう、一日も欠かさずおたすけできる人にならなければいけません。その時間をひねり出せる人にならなければいけません。成る中はだれでもするのです。成らん中させていただいてこそ、値打ちが出るのですね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)