おさしづ配信

成らんではない

おさしづ配信

「真実一つ理を以て通れば、成らんではない。年限の道を見て理を始め。…たんのう一時、どうという理急くやない、急ぐやない。急がいでも、明らかな理を以て通れば、その日が来る。親々という、どんな事でも親に掛かる。…親という理を聞き分けて居れば、発散するであろう。」(明治24・1・18)

増井伊三郎先生は少年のころ、お母さんが病気で苦しんでいるのを見るに見かねて、教祖のところまで何キロかの道を歩いてお願いに行くと、教祖は「救からんで」とおっしゃったのでした。家へ帰ってみたが、その苦しむ姿に耐え切れず、またお願いに上がりました。ところが、二度目も同じご返事でした。がっかりして帰ってみたものの、なおも苦しむ姿にじっとしておれず、三度目のお願いに上がったのでした。そうしたら教祖は、「救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心、これが真実やがな。真実なら神が受け取る」
と仰せくだされたのでした。
「真実一つの理を以て通れば、成らんではない」という、そのままの通り方をなさった伊三郎少年に、このようなおさしづが下ったのは、ごく当然かもしれません。
変わらぬが誠、とお聞かせいただきます。この誠一つを貫くなら、成らぬはずのことまで成ってくるのですね。
また、「明らかな理を以て通れば、その日が来る」と仰せになっています。明らかな理とは、親という理を立て、その理を頂くことにほかならないでしょうね。これは聞く、これは聞かんということでなく、いつも欠かさず心がけて通ってこそ、いつも晴天の理がいただけます。
おかきさげにも「日々という常という」という言葉が繰り返されています。普段は「神かまうな、仏ほっとけ」で通っていて、困った時の神頼みでは、受け取っていただけるわけがありません。
日々常々も形だけでは不十分で、陰の通り方、心の使い方が一番大事です。人間目標でなく神様目標ですから、神様に受け取っていただくのが一番大事です。神様は腹の底まで受け取ってくださるので、一分一厘ごまかしがききません。ありがたいと同時におっかないところがあります。いいかげんにできません。
年限たつほどにはっきりしてきます。先が楽しめるような心の種まきを、日々月々、しっかりさせていただくことです。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)