心の養い/\、何以てどうせにゃならん、こうせにゃならんと言うやない。たヾ心に曇り掛からんよう、日々晴天唱えてくれ。(明治26年11月26日)
ごはんを食べたり、おやつを頂いたりすることを、身の養い、口の養いという。 また、「虫養いに、どうぞ」といって軽い食べものを出したりすることがある。
これなどは非常におもしろい表現である。つまり、お腹がすいていることを「お腹の虫が鳴いている」などという。なるほど、お腹がすくと、クゥウという音がする。そうした経験をもっておられる方も多いだろう。
そのお腹の虫がクゥウと鳴かないように、とりあえず何かを口に入れることになる。それを虫養いというのである。それが転じて、食欲などの欲求を一時的に満たすことを意味するようになった。
心の養いとは、そうした表現に類するものである。それは「どうせにゃならん、こうせにゃならん」というのではなく、「心に曇り掛からんよう、日々晴天」の心で通ることが、心の養い、つまり栄養になる、といわれる。
「人間に陽気遊山を仕込んでみようとて、こしらえた世界なれば、皆の者が陽気の心になり、心勇むれば、如何なる難も皆遁るヽ」とは、昔の教理文書に書かれた一 節である。何よりも陽気な心で過ごすことが大切である、といわれる。が、それに続いて「不時災難も銘々の心が顕われ、難儀するのも心から」で、「心入れ替えて澄ますこと」を強調される。
しかし、このことが難しい。朝の心は決して夕の心ではない。いま晴れていると 思えば、すぐに曇ったりする。心は「コロコロと動くから心というのや」ともいわれるが、これが現実である。自らが自らの心を晴天にすることは至難の業である。てをどりを踊る、ひのきしんや教理の勉強に励むところ、いつしか心が晴れてくる。
お互いに、心を掃除し、澄ます努力を忘れずに通ろう。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)