おさしづ配信

ゆっくりと、旬を見ると

おさしづ配信

「まあ一日二日の間、悠っくりさして置くがよい。その中に何かの事知らさんならん事がある。」(明治22・7・22)

身上の場合は案じるのが一番いけないようです。身体は神様からお借りしたもので、心だけが自分のものですから、その心のどこが違っていたか、どう切り替えればよいのかについて努力するほか、案じることは少しも必要がありません。必要がないどころか害になりますので、断じて案じ心を捨て切ることが必要です。
ところが、外野がうるさくて、つい案じ心が出たりします。神様は、「一日二日の間、悠っくりさして置くがよい」とおっしゃいます。そんな時間も時には必要ですね。そうさせたいための身上もあるのですね。
日本人は、人のことを気にし過ぎる傾向があります。おせっかい屋が実に多いですね。良き個人主義が発達していないのですね。個人の人格の独立を尊重するという意識が薄く、干渉過多に、あるいは過保護になりやすいようです。
不幸な人ほど、徳のない者ほど、人のことを気にし、干渉し、そのくせ自分のことは棚に上げて、知らぬ顔の半兵衛で通りがちです。子供の教育においても、これでは失敗してしまいます。

「旬々が来る。旬と見たら運ばねばならんで。」(明治23・7・22)

ゆっくりする心も必要ですが、旬と見たら、素早く行動することも大切です。ゆっくりした心でいても、旬と見て取る心は油断なく欠かしてはなりません。常に己を空しくして、神様とご一緒という心で通ることが必要ですね。半面、旬を見るにはゆっくりの心が必要です。
明治二十八年七月二十二日(上記と当日)のおさしづにも、「長らえて自由という。…長らえてたんのうの理をよう聞き分け」とあって、三つとも年は違っても、同じ日に共通した内容があり、不思議だなあと思います。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)