おさしづ配信

陰口は罪つくり

おさしづ配信

「善き事も悪き事も裏表、取りよう聞きようによりて理が戦う。こそこそ話はすっきり要らんで。直ぐと直ぐと大きい声で話し、蔭々の話は要らん。こそこそ話は二人の心は治まる。なれどもう三人との中は治まらん。…こそこそ話は罪を拵える台とも諭し置こう。」(明治26・12・6)

徳のある人というのは、受け取り上手、喜び上手で、悪く言われたことでも、いい方に受け取ることができます。その反対は、受け取り下手で喜び下手、善いことでも悪く受け取り、不足の心を起こします。
お通の話を聞いても、それによって自分を反省し、自分をつくり替えていこうとするのが本当なのに、この話は妻に聞かせたい、あるいは夫に聞かせたいと考えるようでは、仮にそういう話を妻や夫に聞かせたとしても、相手も同じようにしか聞かないでしょう。まして、お道の話を責め道具に使うのは、不足の種をまくようなものです。
話というものは、取りよう聞きようで、その後が大きく違ってきます。同じ話を聞いても、聞く人によって後に大きな差ができるのです。だから、お道の話は千べん聞け、と言われるのでしょう。しかし、毎日聞いていれば三年で千べんになりますが、月に一度聞く程度では、なんと八十三年もかかってしまいます。
こそこそ話、陰口は罪つくりの土台となると教えられます。あの人にも良いように、この人にも良いように話をして、結果、その二人をケンカさせる人もいます。それは互いに憎しみをかき立てる結果になるので、罪な話です。話したことが事実ならやむを得ないでしょうが、その場合も、わが身かわいい心から出たうそが混じっていることが少なくありません。ますます罪な話です。こんなケンカの仲人のようなことをしていたら、最後には孤立してしまい、身内や周りの人から愛想をつかされてしまいます。
こそこそ話は中身に関係なく誤解されやすいので、避けることですね。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)