おさしづ配信

たんのう、遠慮気兼ね

おさしづ配信

「身の不足たんのうなろうまい。世上の理を見てたんのう治まる。種がある。案じずして、じっとして居るがよい。」(明治24・7・21)

世の中を見ると、ピンからキリまで、上と下の差は天と地ほどもあります。
上はともかく、下には限りなく気の毒な人々がいます。世界中にはなおさらです。その人たちに比べたら、不足しては罰が当たる、といった気になります。
出来ものは、膿んだり、腐ったりするかもしれません。愚痴は腐る、不足は切れると言われるので、断じて愚痴不足はなくし、先案じもなくし、神様にもたれ切って、じたばたせぬことが必要です。

「神一条、神の支配誰に遠慮気兼あってはならん」(明治31・7・21)

お道の人は、「一人万人に向かう」という心でかかることです。後には親神様、教祖が控えていてくださいます。愛町の初代会長様はよく、「お前さんはお先棒を担ぐんだよ。僕が後棒を担ぐから」とおっしゃいました。
特におさづけの理を取り次ぐときは、相手が総理大臣であろうと、王様であろうと、取次人は親神様の代わりですから、上座に座って取り次ぐのが本当です。ありがたいことだと、遠慮なく上座に座ってお取り次ぎさせていただくとよいのです。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)