おさしづ配信

大きな心

おさしづ配信

「何が無うなっても構わん。大きな心に成ってくれ。この事を、待って待って待ち兼ねて居た。後は大きな事に成る。何も心に掛けること要らん。皆々心配せいせい。心配は楽しみの種、一粒万倍という事は、もう疾(と)うから諭し置いたる程に。」(明治38・12・4)

これは、明治三十九年の教祖二十年祭に向けて、祭場を建てるについてのおさしづです。大きな事を成し遂げるには、大きな心にならねばなりません。大きな心とは、何がなくなってもかまわず、少しも案じず、先を楽しみに信じ切る心、神様にもたれ切る心と言えるでしょう。
むしろ、大きな事が成就するには、何もかもなくなって、全くの無から始まる方がよいと思います。そうでないと、持っているものに心をとらわれ、引きずられて、それがかえって邪魔になる場合があるからです。人間、生まれる時は裸なのですから、新たな出発は、裸から始める方がよいのです。
持っているものをなくすのは一つの冒険ですが、大きく成るためには、ぜひ通過すべき関所とも言えますね。
教祖は、自ら進んで貧のどん底に落ちられ、陽気ぐらしのひながたを示されました。物やお金や財産に執着していては、真の陽気ぐらしはできないと教えられたのでした。世の中の考え方とは、まるっきり反対の考え方です。
いまでも世間では、物やお金が、安心して暮らせるためにぜひ必要だと思い込んでいる人が圧倒的に多いでしょう。物やお金を頼って生きているのですから、それらを失ったら哀れなものです。いつまでもあると思うな親と金、ということわざは知っていても、お金以上に頼れるものが見当たらないので、ついついお金に頼ってしまうのでしょう。
物やお金、財産や地位などより、魂に徳があれば自由の人生を歩めるということが、社会の常識になるところまで教えを行きわたらせねばならないのですね。その点、お道はまだまだ遅れているのです。
何がなくなってもかまわないという心ができたら、この世に怖いものはなくなります。これこそ、安心立命の境地でしょう。そうなるには、親神様に抱きかかえられているということを実感する体験が必要です。神様が働いて下さっているという実感を得る一番の近道は、おさづけの取り次ぎにある、と言っていいと思います。だから、しっかりおたすけをして、おたすけの心を養い育てることです。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)