おさしづ配信

たんのうの理を治めてくれ

おさしづ配信

「いんねんという、いんねん一つの理は、たんのうより外に受け取る理は無い。よう聞き分け。しっかり一つたんのうの理を治めてくれ治めてくれ。」(明治29・10・4)

こうなりたいと思ってもそうならず、こうなりたくないと思ってもそうなってくる。これがいんねんだと言われます。
たんのうの心は、いんねんの自覚がないとできないと本物ではありません。いんねんの自覚は、おたすけによってできる場合と、親や、その親を見てできる場合とがあります。離しがたきものを離し、捨てがたきものを捨て、守りがたきものを守り、執着をなくし、道の上の難儀苦労を楽しみとするまでになれば、いんねんは確実に切り替わっていきます。

Fさんが交通事故に遭いました。その時、奥さんはおたすけに出ていて、兄弟や親せきよりも遅れて最後に現場に到着したので、みんなから非難攻撃の集中放火を浴びました。兄弟や親せきの大半がお道に反対していたからです。
Fさんの奥さんは、穴があったら入りたいとは、こんな時の言葉だと思いました。こんなに文句を言われるなら死んだ方がましだ、というほどのひどい責め言葉でしたが、ふと、これで主人はたすかる、と思えたのでした。死ぬほどの苦労に匹敵する集中攻撃だったからです。だから喜ばねば、と思い直し、Fさんも紙一重の差でたすかったのでした。
奥さんに、たんのうに近い心が生じたのですね。日々、たんのうの心で通れるように頑張っていると、とっさの時にものを言うのでしょう。日々常々の心が大事ですね。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)