身の思やんは要らん/\。どんな事を聞いても聞き流し聞き流し、心治めるならいつ/\の道も通す。…気休みというに、何処でなりと、ぢばで居ればこれ程楽しみあろまい。(明治23・9・20)
「このお道は、何を聞いても何を見ても、何も思わん、心澄み切る教えやで」と、よく愛町の初代会長様はおっしゃったものです。
そんな無色透明な心はなかなか持てるものではありません。座禅を組んで、無念無想になろうとしても、ただの一分ですら、妄想の湧くのを止めることをすらできるものではありません。
そこへ達するには、座禅よりも、死ぬか生きるか分からんような重病人のおたすけに没頭することですね。精神を集中して、統一して、寝ても起きても、立っても座っても、その人をたすけるために、全身全霊を注ぐことですね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)