おさしづ配信

たんのうするは誠

おさしづ配信

「たんのう中、ならん中たんのうするは誠、誠は受け取る。ならんたんのうは出けやせん。なれど一つ、ならん一つの理は、多くの中見分けてたんのう。ならん中たんのうするはは、前生さんげさんげと言う。」(明治30・10・8)

ならぬ堪忍するが堪忍、と昔から言われてきました。堪忍とは読んで字のごとく、堪え忍ぶということ、すなわち我慢、辛抱することです。ところが、たんのうは深い喜びの心、悟りの心なので、全く質が違います。
たとえば、訳もなく顔を張られたとしましょう。ヒリヒリ痛むのを我慢して、決して腹を立てないのは堪忍ですが、たんのうとなると、これを一つの通り返しだと悟って喜ぶのです。どうして喜べるかと言うと、前生や過去に自分が人にしてきたことを、大難を小難にして下さっているのだ、と悟れば喜べます。あるいは、交通事故に遭うよりもいい、ありがたい、と思って喜ぶのです。
そんなことできるか、と思われるかもしれませんが、自分の力ではできなくても、お通に尽くし運んだ効能によって、できるようになります。神様に足していただけるだけの理を日々月々に積んであれば、たんのうできるようになってきます。そして、たんのうができると、神様は「前生いんねんのさんげ」として受け取って下さるのです。
このような”受け取り上手”な人になると、節から次々と芽が出てきます。大きな節ほど、そこから大きな芽が出てきます。一切を明るく陽気に勇んで受けられるようになってこそ、陽気ぐらしができるのですね。
このおさしづを伺った南紀大教会初代会長・下村賢三郎さんは、村人の猛烈な反対の中を布教に突き進みました。その言葉に、
「この道は急いて急かん道、火で来たら水で受け、刃で来たら真綿で受けて通れ」
というのがあります。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)